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古墳 - 愛知県刈谷市の古墳の特徴

この地域における古墳の造営は五世紀代までは一基も造られなかったとされ、六世紀から七世紀の後期古墳に属します。 そしてこれらの市内の古墳(6基)はすべて境川の流域に造られました。 築地・八ッ崎一・ニ号墳・小垣江古墳は正式な調査をされることなく耕地開発などにより破壊されてしまいました。 刈谷市内にある古墳は井ヶ谷古墳以外は墳丘(ふんきゅう)が低かったそうです。 これら古墳時代に刈谷市の市域内に造られた古墳はすべて小規模のものあでり、権力を象徴するような遺物は古墳やその他の遺跡からも出土していないところから、一般民衆にとっては過酷な支配関係は成立していなかったと結論づけられています。 石室に天板石がないことがその理由としてあげられております。 また、市内には天板石に使える大型の石は産出しない事に起因しているようです。 すべての古墳は滅失しており現存しているものはありません。
古墳時代の人々は弥生時代と同じように沖積台地の農耕地近隣に集落を形成して暮らしていました。

井ヶ谷古墳 - 埴輪の円陣

概要

所在地 : 愛知県刈谷市井ヶ谷町
刈谷市北部、境川の左岸堤防にほど近く標高17メートルの台地縁辺にかつてあった刈谷市内の古墳で境川流域における最も古い古墳にあたります。 墳丘には埴輪がめぐらされていました。 ここの地名が大塚と命名されているとおり墳丘が小山がありました。 大正11年の土取り工事の時にその小山もなくなり地名だけ残り当時のおもかげを残しています。 それから時間が流れること昭和35年に井ヶ谷の神社に地内の畑から出土した鉄刀一口が奉納されていたことがわかり、翌年に刈谷市文化財保護委員の加藤岩蔵氏率いる調査チームによる緊急の発掘調査がおこなわれました。 この調査により直径20メートルほどの円墳で周縁には同筒埴輪をめぐらしていたことがわかりましたが、石室は発見されずかわりに粘土の塊が出土したことから直接木棺を埋めその周囲を厚く粘土で包んだ粘土郭の構造だったと推測されています。 滅失。

出土品

黄褐色の砂まじりの土層から須恵器の蓋坏(ふたつき)高坏(たかつき)がみつかり、これらは高蔵四七型式から陶器山一五型式とみられ、そこから古墳の築造が六世紀初頭から前半と割り出されました。 土師質(釉薬(ゆうやく)をかけずに焼かれた素焼きの土器)の円筒埴輪・朝顔型円筒埴輪。 須恵質埴輪(すえしつはにわ)

築地古墳 - 佐久島から運ばれた石

築地古墳 刈谷市
築地古墳跡地の石版

概要

所在地 : 愛知県刈谷市築地町
7世紀代の古墳で杯の出土から追葬があったと思われる。 刈谷市総合運動公園と雁ヶ音(かりがね)中学校が敷地内として存在していた円墳。 大正時代の耕地整理で発見され調査されました。 石室は奥にいくほど広がる台形状で天板はなし。 その後取壊され石室の石は近くの熊野神社に復元され運ばれましたが、現在は存在しません。 その石室の石のひとつが以前古墳があった場所である田んぼの中に近年まで置かれていました。 総合運動公園の建設に伴い石は撤去され熊野神社の境内に移されました。 この石は西尾の古墳の石棺や刈谷城の礎石にも使われたもので三河湾の佐久島(さくしま)から運ばれました。 このことから当時から船による運搬がされていたことがわかります。 古代の刈谷市は築地のあたりまで海だったので近くまで石室の石を佐久島(さくしま)から船で運搬してきたと考えられます。 滅失。

出土品

出土品は土師器(はじき)須恵器(すえき)、鉄製馬具、提瓶(ていへい)で刈谷市郷土資料館に保存されています。 提瓶(ていへい)は形状がとても美しい。

ハッ崎一号古墳・二号古墳 - 赤メノウと水晶のマトリックス?

概要

所在地 : ハッ崎一号古墳:小山町5-29番地 二号古墳:小山町四丁目27番地
6世紀後半から7世紀前半に作られた古墳。 第二号古墳は9世紀に追葬されている。 古墳の石室は大部分が刈谷市新田町の八幡社神域にあり、社名を刻んだ石柱の台石に転用。 滅失。

出土品

第一号からは須恵器と三個の金環が出土している。 第二号古墳からは勾玉(まがたま)瑪瑙(めのう)須恵器(すえき)土師器(はじき)提瓶(ていへい)が出土している。

泉田古墳 - 古代の翡翠

泉田古墳 刈谷市 横穴式石室
泉田古墳の横穴式石室

概要

所在地 : 愛知県刈谷市泉田町
六世紀中ごろから後半につくられた円墳。 横穴式石室が泉田町の八王子神社境内に復元されている。 泉田古墳も天板はなく、奥壁(おくへき)と両側壁という構造です。 畑に埋没していた古墳で、土取り工事に伴い発見され井ヶ谷古墳同様、緊急の発掘調査がされましたが、時間もなく詳細な調査がされることもなく滅失しまた。 古墳が発見された経緯は、宮東第一号貝塚の発掘調査において一部で土取り作業が行われた際に、竪穴住居がでてきという報告を受け、刈谷市文化財保護委員の加藤岩蔵氏をはじめとする調査チームが現場へかけつけ、幅20メートル高さ7メートルほどの崖の東端に、大きな自然石二個が露出しているのを発見しました。 碧海台地では、このような自然石は分布していないため、古墳の石室と考えられ、泉田古墳の緊急発掘調査が実施されました。 市内ではもっとも良好な状態で残っていた古墳ですが、発見当時はすでに墳丘(ふんきゅう)は消失し石室の一部も消失していた状態でした。 横穴式石室は、地山を少し掘り下げた墓坑(ぼこう)内に築かれ、羨道(えんどう)部分はすでに破壊されていました。 石室の主軸は、北西-南東方向を指していて、前面に逢妻川があり、沖積低地が広がっていることから、古墳の被葬者が支配した可耕地に向かって、石室主軸が設定されていることを意味しているそうです。 玄室は、中央部分がやや幅広の長方形で、床面全面に礫が敷かれていました。 非常に小さな石室であったと報告されています。 被葬者は2体発見され、石室中軸線の左右両側に一体ずつ納められていました。 頭骨・腕骨・大腿骨(だいたいこつ)が発見され、人骨の周辺の礫には朱が付着していました。 東京大学理学部教授の鈴木尚氏の鑑定により、二体の被葬者は成人で、一体は男性でもう一体は不明ということでした。 副葬品に追葬を示す形式差が認められないことから、同時に埋葬された可能性が強いとのことで、金環が六点出土したことから三体埋葬された可能性も指摘されています。 この古墳からは土師器が出土していない。

出土品

発見された副葬品は、須恵器の蓋坏(ふたつき)9点、 高坏(たかつき)1点、 短頸壺(たんけいつぼ)2点、 広口壺(ひろくちつぼ)2点、 細頸瓶(ほそくびびん)2点、 鉄刀(てっとう)3点、 刀子(とうす)4点、 鉄鏃(てつぞく)10点、 金環(きんかん)6点、 管玉(くだたま)3点。 畑の開墾で古墳が破壊されていたが盗掘はなく上記のように豊富な副葬品が発見された。 鉄製品は、鞘に収められた状態の直刀で刀身に木質が付着。 鉄鏃は、矢柄付き。 須恵器は陶邑古窯(すえむらようせき)の編年から高蔵10または42型式に近い。4型。

小垣江古墳 - 刈谷市最南端の古墳

概要

所在地 : 愛知県刈谷市小垣江町
「枕返塚」と呼ばれていた。石室らしいものはなく、円墳と考えられる。

出土品

出土品は金環二個のみ。土師器(はじき)須恵器(すえき)の欠片が散在していた。

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